あの日の記憶。

おはこんばんちは。飯塚です。

やっと雨ばかりの日からだんだんと晴れの日が増えてきました。

一月から2か月みっちり雨ばかりだったので、気づけば来週はセントパトリックスデーだなんて!

と月日の流れに今更驚いてます。

子供達も流行りの風邪にかかり珍しく私にも移されて先週からはグッタリしていました。

やっと挽回してきたのでなんとか活動的になりたいものです。

庭の可愛い花が咲きましたよ。

3月11日には。

アイルランドに来て13年経ちました。

こちらは地震がありません。私も一時帰国で地震にあまり合わないので「揺れる感覚」を身体が忘れつつあります。

日本にいた時は地震なんて日常だったのに。

仙台が実家なので地震には慣れてます。しょっちゅう揺れるから人間も耐性がついてる。

でも、あの3月11日は違いましたね。

私は東京で仕事をしていたのですが。

ここで、あの日の事を書いた事はなかったのに特に理由はないですが、なんとなく書けなかった。

それは、我が家は特に大きな被害もなかったし被災地と呼ぶほどでもなかったから、かもしれない。

難病や、生死を彷徨う病の人達の前で「食あたり」や「風邪」の人が語れる事などほとんどないように、ほぼ無傷な人があの震災を語るなんて、とずっと心のどこかで思っていた。

あの地震の瞬間、7階の千代田区のオフィスはかなり揺れた。

私はデスクでコーヒーを飲みながら隣の部署の先輩と世間話をしていた。いきなり足元がぐらつき、先輩は

「え!なに?わー」と動揺しながら私の肩を掴んだ。デスクにコーヒーが溢れ、部署の隣りの本棚から本が一気に飛び出して床に散乱した。

誰かが会議室のTVをすぐにつけて「震源地は宮城県」となった瞬間にみんなが私を見て「すぐ実家に電話しなよ!」と言われ、誰かの「携帯より会社の電話の方が繋がるから会社の電話を使いなよ」と声が聞こえて会社の電話を使うも、もうすでに電話は繋がらなかった。

退社時間が近づいて、「電車は全て運休」だとわかると、「会社に泊まる人」と「歩いて帰れる人は歩く」となった。なるべくなら「歩いて帰ってください」という雰囲気ではあったし、誰だって寝具もない会社には泊まりたくない。

会社から家まで徒歩二時間くらいだろうか…。道はだいたいわかる。帰宅困難な女性先輩方二人も我が家に泊まる事になり、三人で歩いた。

半蔵門から九段下へ向かい、水道橋辺りはまるでお祭りの後のように賑やかな大行列。歩道はいつになく人が溢れ、都内の道路は大渋滞。バスの中も混雑しているのは明白で三人で「あの激混みなバスに乗るのは拷問だよね」などと話しながら歩き続ける事にした。

途中の中華料理店で晩御飯を食べ、家に近いスーパーで朝ごはんのパンや卵を買い、やっと我が家についた。

当時の私は両親が都内に所有する3LDKアパートに弟と同居していた。客間には布団も何組かある。

弟は突然の来客には驚きつつ状況が状況だけにすぐに納得し、

「仙台電話繋がらないよね」

と話した。

お菓子作りが得意な弟は

「地震が起きた瞬間さ、キッチンで杏仁豆腐作ってたんだけどいきなりすごい揺れたから俺の後ろの食器棚が倒れそうな気がして必死に押さえたんだよね。そしたらガスも止まっちゃって。杏仁豆腐作はギリギリ作れたんだけどもう何も料理できないよ」

などという。私達は弟に会社からの道中の話をした。

なぜかTVはずっとつけていた。ニュースは延々と津波の映像だけが流れる。10時すぎ、家の電話が鳴った。仙台の父からだった。

「心配したか?今、大学病院の公衆電話からかけてる。こっちは大丈夫だから。電気も水道もガスも止まってるけどな。そっちは大丈夫か?」

うん、私はそんなに心配なんてしてなかった。実家はいつも地震にびくともしない。津波も来ない。両親が沿岸部に行く事など滅多にないし普段の生活をしていたら被害には遭わない事はわかっていた。

それでも数パーセントあった心配。父からの一報で安堵感を覚え「あぁ、やっぱり不安だったんだな」と思いながら布団に入り目を閉じた。

地獄と天国が隣り合わせ

翌朝、ガスの元栓を開けばガスが使える事がわかり、朝ごはんと弟が昨日作った杏仁豆腐もみんなで食べた。

TVはまた津波の映像ばかり。昨晩は東北には雪が降ったらしい。津波にあった人も逃れた人も凍えながら一夜を過ごしたのか…。

先輩達は昼近くに帰り、また公衆電話から今度は母から電話がきた。あれこれ話した後でふと

「今日はね、すごく暖かくて。電気も止まってるから信号もつかないしガソリンスタンド使えないとかいうから車も走ってないのよ。TVも何もつかないでしょ。だからね、本当に静かなの。外で鳥の声だけが聞こえてね、晴れててすごく平和みたいな感じなのよ。」

途端に背中がぞわぞわと寒気がした。

津波の被災地に一番近い人達だけが何が起こったかを知らないなんて。

今や地球の反対側のアルゼンチンの人だって津波の映像を見ているのに…。

「ねぇ、松島とか石巻、気仙沼は津波で町も家も飲み込まれて死者も行方不明者もどれくらいになるかわからないんだよ」

「本当に?そんなの信じられない」

そうだ、誰だって信じる訳がない。黒い波が轟々と音を立てて街を飲み込むなんて。

仙台市に住む津波の心配がないエリアの人は電気が復旧するまで津波の被害など知らなかったのだ。

地獄の隣りにいる人の

「なんだか暖かくて静かでとても平和なのよ」

という言葉を聞いた瞬間の寒気だけがずっと記憶に残っている。

フルマラソンの練習で実家から被災地に走って行けると知る。

この数日後、父は津波に飲まれた仕事仲間の奥様の訃報を聞いたり、両親は葬儀に参列したりもした。

私は毎年この日には母との電話を脳内再生し、震災に思いを巡らせている。

石巻の高台より

西果て便り

(毎週木曜日更新)
世界放浪の後にヨーロッパの西端アイルランドに辿り着く。海辺の村アイリッシュの夫、と3人の子供達(息子二人、娘一人)と暮らしています。