クマが出たと言われましても
僕が出会ったのは何だったのでしょう。山で遊んでいると、昔話に出てくるような不思議に出合うことがあります。今回はそんなお話です。
先日、山を何往復もしていた時のことです。登山に行く方も、行かれない方も、すでに不思議を感じているかもしれませんが、まだ本題ではありません。珍妙な生物ではありませんが、何往復もする摩訶不思議にして珍妙なる人々は存在するのです。
おじいさんが山へ柴刈りに行くように、一部のトレイルランナーはトレーニングだったり、楽しみのひとつとして、山を何度も往復します。
4回目の登りに異変
そんな物好きの1人である僕は、標高差400mほどの斜面を行ったり来たりしていました。3回目の登りを終え、下っている途中で、登ってくる若い男性とすれ違いました。
20代前半くらいでしょうか。ハイネックのニットとテイラードジャケット、細身のパンツにスニーカーという爽やかな服装。街中とは違い、山だと違和感たっぷりでしたが、軽い足取りで登っていきます。
その時は、あいさつを交わしただけでした。そして、ちょっと休憩した後の4回目の登りで異変は起きました。稜線に出たところで、先ほどの男性が向こうから駆けてきました。
「ク、クマ。クマがいました。この先は危なそうです」
焦った様子でしたが、僕の顔を見て足を止めたる余裕があったことから察するに、それほど緊迫した状況ではなさそう。追われていたら、急いで逃げろと叫んでいたことでしょう。
「クマですか」と相槌を打ちつつも上の空。あぁ、クマの出る季節なんだなあと、春の訪れをしみじみ感じていました。詳しく聞こうとしたら、ちょっと離れたところでクマらしき影を見かけただけで、詳細は不明とのことでした。
表情に焦りの見えた男性は一通り話すと、電池が切れたロボットのように静かになりました。
どう行動するのかが気になり、しばらく無言で見ていたのですが、彼も無言のまま。静かな時間だけが流れていきました。
黙ったままで何の動きもありません。よく分からないダルマさんが転んだのようでした。
男性は目だけ動かして、僕が何か答えるのを待っています。引き返した方がいいのか、山頂を目指すのか、決めかねているのかもしれません。
白状しましょう。この時、僕は弱ったなあ。と思っていました。クマが出たと言われましても、僕なんぞに助言を求めて何になるでしょう。Tシャツ、短パンで汗だくの男で、なんなら4回目の登りです。
「すでに4往復目で通い慣れた登山道でして、僕の匂いが残っているから、臭くてクマも寄ってこないですよ」などと軽口をたたいてしまうと、クマよりも僕におびえること必至です。
そんなことを思案している人間に進退を委ねてはいけません。ましてや、街着のまま山に着た若人です。もっと山にふさわしい装いの岳人に聞くべきです。
止まっているとトレーニングにならないため、僕は走るのを再開。稜線の続きをたどっていると、男性もついてきているようでした。時折聞こえる物音が、その存在を知らせてくれます。
走っている僕との距離は開いていき、その音は小さくなり、山頂に着く頃には聞こえなくなっていました。
来た道を戻って下りていけば、男性とはどこかでまた会えるはず。そう思って下山するものの、姿は一向に見えないままでした。結局、麓まで下りきってしまいました。
1本道なのに、どうして。
ひょっとすると、僕についていこうとしたものの、早い段階で引き返して下山を開始していたのかもしれません。とすると、途中で聞こえた物音はいったい誰のものだったのでしょうか。
昔話に出てきそうな不思議な体験でした。